読んでいない本について「堂々と」語る方法


書評はとても奥が深くて面白い作業です。当ブログでも、毎回、試行錯誤を続けています。

読んでいない本について堂々と語る方法

ブログで書評をメインに書いている身としては、興味を持たざるを得ない挑戦的なタイトルの本です。英訳書はニューヨークタイムズの「サンデー・ブック・レビュー」の2007年のベスト100に、フランス人の本としては唯一ランクインしています。期待どおりの痛快な内容でした。

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実はなんとなく知っていた…

「読んでいない本について書く方法」については、私は答えに近いものを、実は知っています。これまで書評を書いてきた中で、独自に編み出した方法です。

読書感想文ではなくて、「エッセイ」を書くつもりで臨んでください。エッセイを書くコツは「補助線」を意識することです。自分の得意な仕事や趣味、スポーツ、自分自身のこれまでの経験を補助線にして、文章を書くのです。言い換えれば、本の内容と得意分野を強引に結びつけるということです。

via: 「おもしろい書評」を書くために必要な7つの知識

それは、「自分の得意分野を『補助線』にして、本の内容を紹介する」方法です。本の内容を強引に得意分野に引き込んで、持論を展開します。そして、持論の根拠として、本の引用を活用するのです。

つまり、「本をダシにして自分を語る」戦法です。

この方法を利用すると、本のすべてを読む必要はありません。流し読みでも良いし、自分の一番興味がある部分だけ読むだけで、書評を書くことができるでしょう。まったく読まずに書評を書くことも可能なはずです。Googleで他のブログ書評を検索すれば、引用すべき印象的な文章を見つけることができます。引用文さえピックアップできれば、あとは引用文を持論で結びつければ完成です。

賛否両論はあると思いますが、この方法はかなりりパワフルで、意義深い作業だと私は考えています。新しいアイデアの創作とは、「既存のモノ・コトの組み合わせに過ぎない」とは、有名な話です。まったく関係のない遠く離れたものを結びつける方が、斬新なアイデアが生まれます。「得意分野と本の内容を強引に結びつける」行為は、アイデア創出のプロセスそのものです。

世の中には、いわゆる著名人のような、書評や記事に対するコメントを大量に求められている人が居るはずです。そういった方々は、おそらく、最初から最後まで読むようなことはぜすに、おおかた、上記のような方法を取っているはずです。読者にとって重要なのは、対象の書籍や記事の内容ではなくて、著名人が何を考えるか、どうキュレートするかなのです。


Hardcover book gutter and pages / Horia Varlan

本を「読んだ」「読んでいない」の違いとは?

……と、ここまでは本書の内容に一回も触れずに、本書について書いてみました。キリがないので、この辺でやめておきます。このように、読んでいない本について多くを語ることは、素人の私ですら十分に可能なのです。(ちなみに私は、書評した本については、ほぼ全部読んでます!信じてくださいw)

注意深く読んだ本と、一度も手にしたことっがなく、聞いたことすらない本の間には、さまざまな段階があり、それらはひとつひとつ検討されなければならない。「読んだ」とされる本に関しては、「読んだ」ということとが正確に何を意味しているのかを考えるべきである。読むという行為はじつに様々でありうるからだ。反対に「読んでいない」といわれる本の多くも、われわれに影響を及ぼさないではおかない。その本の噂などがわれわれの耳に入ってくるからである。

確かに、そもそも「本を読んだ」という状態はどういう状態なのか、私には上手く説明できません。流し読みした場合と、昔しっかり読んだけど忘れてしまった場合では、どちらが本を語るのに適した姿勢なのか?と聞かれたら、答えられないです。

もちろん本を最初から最後まで全部読んで、その後すぐに書評を書き始めるのがベストでしょう。しかし、書評を書いている間にも、内容をどんどん忘れていきます。本の内容すべてについて書くわけにもいかないので、気になった箇所をいくつかをピックアップして、それらについて書いていくことになります。

教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本をはじめから終わりまで読む必要はない。

流し読みしかしていなくても、本について語ることはできる。しかも流し読みは、本をわがものにするもっとも効果的な方法かもしれないのだ。それはディテールに迷い込むことなしに、ほんが持っている内奥の本質と、知性を豊かにする可能性を尊重することだからである。

私の本の読み方は、まず、気になる部分・自分の考えとマッチする部分に付箋をつけながら最後まで読みます。次に、付箋の部分だけを復読します。そして、その中でも特に気になる部分に違う色の付箋を貼っておきます。書評は最後につけた付箋の部分をメインに書きます。せっかく全部読んでも、書評の題材になる部分は、数箇所に絞られてしまうのです。

自分が気になる箇所をピックアップさえできれば、全部読まなくても、かいつまんで読むだけで、書評を書くことは可能です。難しいことではありません。そう、目次を読めばよいのです。もちろん目次だけではわからない部分もあるので、全部読んだほうが確実です。それでも、かなりの部分をカバーできると思います。

個人的な<内なる書物>は、集団的な<内なる書物>と同様、諸所の書物を受容するさいの受け皿となり、それらを再構成する働きをもつ。この意味ではそれは、書物を、ひいては世界を解読するためのグリッドを提供する。そして、透明性の幻想を与えつつ、書物や世界を発見せしめる

結局は、自分が気になった部分以外は忘れてしまいます。読んだもの同士で、本の内容について話をしても、食い違うことは良くあることです。

人は<内なる書物>という、自分だけの「書物」を脳の中に持っていて、その文脈に沿って、「これは面白い」と思う文章だけをピックアップしているに過ぎないのです。これは当ブログで再三述べている「補助線をつかって書く」ことと同じことです。補助線とは、自分の得意分野や、自分の経験談など、要するに「自分自身」のことです。

二人の人間の<内なる書物>は符合しようがないのだから、作家を前にしてくだくだしい説明に走っても無駄だということである。そんなことをしたところで、作家は不安を募らせ、相手は何か別の本について語っているのではないか、自分を別の作家と取り違えているのではないかと思うだけである。

著者さんが、自分の本について書かれた文章を見て幻滅するという話は、本当にその通りだと思います。私が更新しているこのブログですら、私の意図とはまったく違った解釈をした上でコメントをされてくる方もいます。

ネガティブコメントを書いてくる人も、ご自分の<内なる書物>と、まったく正反対のことが書いてあるので、「間違っているよ」と、助言してくれているつもりなのでしょう。<内なる書物>は人によって内容が異なるということを理解していれば、派手なネガティブコメント・ツイートを打つようなことはしないはずです。

「わたしは批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」

挑発的だが、彼の著作の大部分を言い当てた表現に他ならない。書物というものは、それを読む批評家の思考を突き動かすこともあれば、彼のうちにあるもっとも独創的なものから彼を遠ざけることもある。

批評をするために書物の中に踏み入ることにともなうリスクは、もっと私的なるものを失うことである。それは建前上は書物じたいのためであるた、そこで犠牲にされるのは批評家自身なのである。

読者のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でならなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者とは、書物の各々が自分自身の一部をかけもっており。もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さを持ち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。

当ブログでは、以前から「本をダシにして自分を語る」方法を紹介しています。少々毒の効いた表現ではありましたが、意外と的を射ていたと思います。

まさにこの「本をダシにして自分を語る」方法こそが、本書にある「良い読者の方法」に近いのです。本に近づきすぎてしまって<内なる書物>が完全に書き換えられてしまえば、自分自身のオリジナリティが失われてしまいます。主観はオリジナリティの源泉なのです。

以前、「あなたの書評は評論になっていない。これはエッセイだ」とケチを付けられたことがあります。私は「厳密な意味での書評」を知りませんが、推測するに、かなり退屈な文書のようです。型にはまらずに、読者さんが面白く読んでくれれば、私はそれでよいと思っています。

形にこだわる「様式美的なもの」「フレーム的なもの」の価値は認めますが、それはフレームを利用して節約したパワーを、独創性に向けていくためのものであるべきかなと思います。日本料理のお店で「ビール」を頼んでも別に良いじゃないですか。美味しければ!


MLK- I Have a Dream / satomiichimura

読んでいない本について堂々と語る方法

さて、本書のタイトルでもあるように「読んでいない本について堂々と語る」は本当に可能なのか?についても言及しておきます。

すなわち、諸々の本はひとつの全体を形作っているこという事を知っており、その各要素を他の要素をの関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。

したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係はわかっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである

本の存在意味とは、内容そのものよりも、周りのたくさんの本の中で、どういう位置づけになるのか、つまり周囲からの評価によって決まります。もっといえば、人々は、本の内容よりも、その本がどう評価されていることの方が興味があるのです。

自分で自分の作品にコンテキストを付与し、そのコンテキストがアメリカ・ヨーロッパの美術シーンに接続できるような戦略を立てていったということです。すなわち彼は天才的なアーティストであるのと同時に、きわめて優秀な(自分の作品に対する)キュレーターでもあるわけです。

via: ブログの歴史に名を残す方法

この考え方は、いま話題のキュレーションの考え方そのものです。コンテキスト(文脈)がないコンテンツが人々をひきつけることはありません。もっと言えば、「コンテキストそのものがコンテンツ」といっても過言ではないのです。

本についても、「文学史どの部分に位置づけられるか」こそが本質的な「コンテンツ」だと、言うこともできるのです。書籍空間の中で、どう評価されて、どこに位置づけられるかが決まって、そこで初めて本が世に出たと言えるのです。

最後に、読んでいない本について堂々と語る、決定的な方法についての引用を、本書評の〆とさせていただきます。

これは、ヴァレリーの快挙だというべきだろう。それは彼が、自分が本を読まないことをひとつの理論にまで仕立て上げ、この理論は自分が読まずしに論じている作家自身が要請するものであって、読まないことはこの作家にたいする最大の賛辞ですらあるということを示したからである。そしては、ヴァレリーは、大胆にも、結論部分において、「難解な作家たち」に敬意を表しつつも、いまに彼らを理解できる者は一人もいなくなるだろうと述べて、彼自身、この批評文を書き終えたあともプルーストを読む気になどなれないということを仄めかす。

今日のわかった

いやはや・・・。「読まない理由」を語るとは・・・。さすがにこの真似はできません(^^;)

読書2011
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